2012年4月18日水曜日

Toward The Sea :鈴木創士


最愛の人を失う。この耐えがたい「現実」に直面して、人はいくつかの態度をとる。
たとえば、フロイトやラカンの神経症的態度=抑圧、あるいは倒錯的態度=否認の「死」に対する二つのあり方はどうであったか。

※神経症、倒錯、精神病の三つの区分を語るラカンのもう一つの態度、「精神病的態度=排除」はここではとりあえず除外して、ミレールの言葉だけを参考としてあげておこう。

精神病とは,対象が失われておらず,主体が対象を自由に処理できる臨床的構造なのです.ラカンが,狂人は自由な人間だというのはこのためです.Clinique ironique. Jacques-Alain Miller

死を「抑圧」する、つまり最愛の人が死んでしまったことを考えないようにする。しかし、抑圧された外傷的体験はなんらかの形=症状(symptom)で、――あるいは「隠喩として」といってもいいーー回帰する(蛇足ながら、神経症の場合、「抑圧したものの回帰」は「隠喩として」だが、精神病の場合、つまり「排除したものの回帰」はそのものとして回帰すると云われることを付記しておく)。

隠喩とは、基本的にすでに獲得された意味内容‐抑圧物を表象し回帰させる作用である。しかも厳密な意味での隠喩とは、いったん獲得‐抑圧された意味内容‐抑圧物‐外傷を示唆することで、不快な抑圧物を再帰させて主体を原初的な反復‐攻撃の体勢に退行させ、その上でさらにそれを隠蔽‐回収してやることで、主体を原初的‐想像的な「よき他者」の前に再帰させ、幻想を補強するような言葉である。

例えばリルケが「薔薇の花、純粋な矛盾、おびただしい瞼の下で誰の眠りでもないその悦楽」と語るとき、薔薇という隠喩項は、死という抑圧物、すなわちそこでは眠りが帰属する主体が不在であるという冷酷な現実を再帰させ、しかし次の瞬間、その眠りを再び多くの者の瞳へと回収させ、そこに「悦楽」‐幻想を残していく 。


アンディ·ウォーホル"キャンベルスープ缶"

この開示/隠蔽という対立(「純粋な矛盾」)が「悦楽」を生産していく過程は、いうまでもなくハイデッガーのアレーテイアの開示/隠蔽が、同様に帰属するオーダーであり、そこで矛盾‐運動‐振動とは、抑圧物の再帰とともに駆動する不安と、それを押し止める他者‐力との間の、基本的に幻想的‐想像的な対立として駆動する。(樫村晴香『ドゥルーズのどこが間違っているか?』読解資料

他方、倒錯的態度、否認とはなんだったか。最愛の人の死を「否認」するとは?

死を「理性的に」完全に受け入れるが、なおかつフェティシュに、つまりこの死を否認せしめる呪物に、執着を示しもする。この点でフェティシュは、人を過酷な現実に対処させるという、しごく建設的な役割を果たすことができる。
・フェティシストは、……フェティシュに執着することで現実のもたらす衝撃をやわらげ、事実をありのままに受け入れることができる、徹底したリアリストだ。(Slavoj Žižek, First as Tragedy, Then as Farce )

※参照: 資料:フロイトの『呪物崇拝』(フェティシズム)をめぐる

死者の遺留品がある。たとえば衣服、装身具。フェティシストは、この呪物に執着を示すありようは、死者があたかも生きているかのようにして、である。反対に、死を「抑圧」する神経症的態度においては、遺留品は最愛の人の「死」の隠喩となり、彼(あるいは彼女)の心を掻き乱す機能をもつ(もちろん、これだけではない、特に「詩的隠喩」として機能する場合は。樫村晴香のリルケ、ハイデガーを引用しつつの悦楽‐幻想への反転を述べる上掲の文をみよ)。

ところで、倒錯や否認を語るときには、オクターヴ・マノーニに古典的論文『よく知っているが、それでも……』がある。ジジェクがしばしば引用し、日本では大澤真幸が「不可能性の時代」などでほ� ��ジジェクの『斜めから見る』の叙述をあたかもまとめる形でほぼそのままそっくり、マノーニのカサノヴァ論述個所を引用したり、あるいは田中純が次のように書いたりする。


sherlyローレンスは誰ですか?
……「よくわかっている、しかし、それでも……」というこの主張の形式は、「それでも……」以下に語られる無意識的信念へのリビドーの備給を示すフェティシズムの定式である(「母さんにペニスがないことは知っている、しかしそれでも……[母さんにはペニスがあると信じている]」)。
※大澤真幸の「不可能性の時代」の引用はここにあり→共同討議 基礎教育学コースの「これから」PDFファイル 東京大学大学院教育学研究科 ――ジジェクからの引用であることにまったく気づいていないらしいのが症候的である。

さて、ジジェクのマノーニ引用個所は省いて、たしかその直後の叙述であったと記憶する部分を『斜めから見る』� �ら引いてみる。

事態はきわめて深刻であり、自分たちの生存そのものがかかっているのだということを「よく知っているが、それでも……」、心からそれを信じているわけでは ない。それは私の象徴的宇宙に組み込む心構えはできていない。だから私は、生態危機が私の日常生活に永続的な影響を及ぼさないかのように振舞い続ける。(「放射能=無気味なもの」再考

――さて、昨年、大きなカタストロフィがあったわけだが、その被災をめぐってだけでなく権力中枢の対応の無残さへの憤りを語らない多くの人々がいる。
憤りというものはこういったものである。


障害のある塔==誰が故障していましたね?
原発の背後にいた通産省官僚と政治家、東電の会長、社長、特に副社長、安全政策の作成に携わった御用学者、それを支えた全国の知識人、罪の程度はいろいろあれど、こいつらを重犯罪で即刻告発すべきだ。やれよ、検察。ちがうか、おまえらも同じ日本的穴のむじなだったよな。(鈴木創士)
あるいは、
「新たな"東京裁判"を」       柄谷行人
3.11以後まもなく、私は"東京裁判"のことを考えた。もちろん、それは第二次大戦後の東京裁判ではなく、東京電力・経産省など原発に関係する当局を裁く法廷である。当局は最初から、この事故の実態と被害の実情を隠蔽した。それによって生じる被害は甚大なものになるから、必ずその罪が問われるだろう。さらに、当局のやり方は、福島の住民あるいは日本人全般を欺くだけではない。放射性物質を空中に飛散させ海中に廃棄するこの事故は、広く海外の人たちに被害を及ぼすものであり、日本だけではすまない問題である。ゆえに、これは国際的な裁判になるだろう、と私は考えたのである。
 同時に、私はこう考えた。それはかつての東京裁判のようなものではあってはならない、と。東京裁判は戦勝国が敗戦国を裁くものであった。しかし、一つには、それは、日本人が自ら戦争指導者を裁くことができなかったからである。また、その結果として、戦勝国に服従して原発を推進するような勢力の存続を許してしまった。したがって、原発事故の責任を問う"東京裁判"は、市民自らが担うものでなければならない。それが「世界市民法廷」である。

われわれはそれを「抑圧」しているのだろうか、あるいは「否認」しているのだろうか。それとも、もし二一世紀が「神経症の時代から精神病の時代へ」であるならばどうなのだろう、まさか「ゲーム」に対処するような態度(リセット可能!?)をとっているわ� ��でもあるまいとは思うのだが。

※参考:ポスト資本主義社会あるいはサイバースペースの時代の「象徴界」の弱体化による「精神病」的態度をめぐって。


……ジジェクは、主人のシニフィアンが有する象徴的権威は、それが構造的な曖昧さを抱えた仮想的なものであるからこそ成立すると言う★一二。全能であるか不能であるかが決定しえないがゆえに、父は支配的な権威を帯びる。この決定不能性に依拠してはじめて、民主主義の主体は自らの単独性を維持することも可能となる。だが、サイバースペースにおいては象徴秩序の次元に幻想の次元が融合してしまい、共同体の法は明確なルールとなってすみずみまで透明化されてしまうために、主人のシニフィアンの仮想的な地位そのものが失われ、象徴的権威は成立しえなくなるのである。

このようなサイバースペースの主体は、ゲームの場である社会関係のなかで、複数の規則を操りながら、本来の象徴的任務ではなく、局面に応じて さまざまな役割を演じわける〈病理的ナルシスト〉にほかならない。〈病理的ナルシスト〉は「本来の象徴的同一化を含んでいる、自分を縛るような関わりはいっさい持とうとしない。彼は根源的に体制順応者でありながら、逆説的に、自分を無法者(アウトロー)として経験する」★一三。ジジェクがここで注意を促しているのは、病理的ナルシストにおいては、主人のシニフィアンの権威、言い換えれば父性的自我理想が失効することによって、はるかに強力で脅威的な母なる超自我の支配が招かれるという点だ。母なる超自我は享楽を禁止することなく強要し、正常な性的関係を妨害する。あらゆる個人がサイバースペースのなかで自由に自己を表現できるような民主主義的共同体は、むしろ逆に、猥雑な超自我的な法によって享楽� ��強制し、自己破壊的な不安によって脅かす抑圧的な社会でありうる。(暗号的民主主義──ジェファソンの遺産 | 田中純

※このように書いた松浦寿輝は、倒錯者でも精神病者でもなく抑圧者なのはいうまでもない。


悲嘆も恐怖も心の底に深く沈んで
今はそこで 固くこごっている
それが柔かくほとびて 心の表面まで
浮かび上がってくるのにどれほどの
時間がかかるか 今は誰にも判らない

それまで 私はただ背筋を伸ばし
友達にはいつも通り普通に挨拶し
職場ではいつも通り普通に働いて
この場所にとどまり 耐えていよう

心の水面を波立たせず 静かに保つ
少なくとも保っているふりをする
その慎みこそ「その後」を生きる者の
最小限の倫理だと思うから

「afterward」(「朝日新聞」2011年03月29日夕刊)

以上



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